2023/08/20
2023/08/18
ふたつの図書館を、またいで使っているのですが、初めて返却館を間違える。もちろん夏のせい。
手慣れているのか、スタッフの方は電話の声音がとてもやさしく落ち着いている。延長処理までしてもらう。本当に申し訳ありません。
そんな図書館で借りた村田沙耶香『信仰』するすると読めてしまった。『授乳』を大学生の時に読んで以来、なんとなく好きな作家のひとりだけど、著者のことを「クレージー」だと思ったことはいちどもない。むしろ実直な印象さえある。
どうか、もっと私がついていけないくらい、私があまりの気持ち悪さに吐き気を催すくらい、世界の多様化が進んでいきますように。今、私はそう願っている。何度も嘔吐を繰り返し、考え続け、自分を裁き続けることができますように。「多様性」とは、私にとって、そんな祈りを含んだ言葉になっている。
ここで語られるのは、「クレージーさやか」というメディアの安直なパッケージングを甘んじて受け入れてしまったことに対する自戒・自罰の呪詛だが、なぜか風穴をぶち開けるような解放感がある。シオランの箴言に近しい。又聞きだけど昔、煙草を吸う理由について女性が「私は自分を罰するために煙草を吸っている」と話していたのを思い出す。
ところで、アリ・スミスに倣えば吐き気とは、
[...]吐き気というものを改めて経験するのはそれはそれで価値のあることかもしれない。というのも、吐き気にはある種の快感が伴っていることを彼女は覚えていたからだ。何かを取り除こうとする無秩序な力。あまりにも気分が悪いせいで、生よりも死の方が好ましいとさえ思えるような極限の状態。自身の生死を左右する大いなる力と駆け引きをしていると感じさせてくれる時間。
アリ・スミス『冬』木原善彦訳(2021 新潮社)
と、村田同様解放を志向する力として描かれる。「信仰」「生存」も同様に、目隠しのように自分を縛るルールから解き放たれたいと願う女性が登場する。「信仰」では洗脳されることを自ら望み、「生存」においては新しい階級社会において、固定化されたクラスからの解放を望む。しかし望めば望むほど、加速度的に堕ちていく、渇いていくさまが皮肉だ。特に「信仰」においては、後半の打擲、叫びの暴力性に凄まじいエネルギーが横溢している。