中には何度かこの紙の上にだけ現れて、姿かたちを見せることなく消えていく名前もある。いずれにせよどの名前も、ぎざぎざした人生を背負うものではなく、つるんとした作り物の響きしか持たないのだから、私は平気でそれらの文字に線を引いたりバツ印をつけたりする。
夜の街のスケールとは裏腹に、1本のボールペンと紙のメモというミニマルなパーツへのフェティッシュから物語は始まる。
ホストクラブの客たる姫の記号的な名前は記号のまま、紙の上に浮かんでは消えていく。端的にいえば、紙とボールペンに夜の街が集約されているのが大事なのだ。けばけばしい電飾、刺激、渦巻く欲望——こうした夜の街のダイナミズムは紙とボールペンのささやかな動きで成り立っている。
さらに読み進めると(ジンメルの貨幣論なんか読まなくても夜の街が教えてくれる)、姫の価値が貨幣に還元されるような単純な図式ではなく、「[...]紙幣で売られているものと買われているものが何であるか、紙幣と共に自分が手渡したのが何であるのか、一体紙幣はどこに行くのか。それさえ問わなければいい。」(37頁)と宣うのはホストクラブの出納係の女。その街で反省してはいけない、自分にレ点を打ってはいけない。省みることが自分の綻びにつながるような、摩擦なく直進を求められる夜の論理に対して、彼女にちらつくのは皮肉にも過去の影だ。
彼氏は他の女の経血を付着させながら、あっけらかんとしている。この経血を憎たらしいくらい偏執的に——もちろん著者は確信犯的に、嬉々として——連呼する。あるいは幼なじみの祥子の母の傲慢さ、不慮の事故で顔に傷の残った祥子、そして主人公の衰弱した祖母——街の論理に対して彼/彼女たちは女の過去を、厭でも振り返らせようとする摩擦になっている。象徴的なラストシーンも、記憶の噴出で終えるところをみると記号たる姫の推進力には遠く及ばない。
あるいは物語にかぎ括弧付きの会話文がやけに少ないのも無論戦略的で、会話が会話未満で終わるというか、意味のある言葉の連なりとしいちいち捉えていては街では破綻するのだと思う。それゆえかぎ括弧に包まれた言葉が映えてくる。祥子との再会は物語の印象的な場面のひとつだが、どこか白昼夢のようにぼんやりとしていてかぎ括弧で祥子の言葉が描かれることもない。街の論理/自分の過去の截然とした境界で煩悶する主人公を思えば、自分の過去に蓋をしたいという抑圧をその場面に感じられる。その重さがあるからこそ、祖母の言葉は抑圧の回帰としてぶち上がるものになっている。
「中が空洞の箱」(30頁)よろしく、フィクションもまた、空洞の箱だと唾棄される昨今、何度も何度も省みを求められる意味の充満した昼の街だけでは退屈なので、夜の無意味な空洞を愛する人たちがいるのだし、そんな人たちを大きく抱きかかえられるのが、フィクションの懐の広さだ。