村田沙耶香「信仰」のための覚書

[...]信徒はそう単純に「信じる」という行為でもってその生活をきれいに一貫させているわけではありません。[...]いわゆる無心論者や宗教批判者たちも気を付けねばならない点だと思います。しばしば無心論者や宗教批判者たちは、信徒たちによる「私は信じています」「信仰があります」という自己申告を、あまりに素直に「信じ」てしまう傾向があるように思われるからです。神を信じていると自称する人たちも、実はしばしば神を忘れ、神を無視する、というのは「宗教」という営みについて考えるうえでは重要な現実です。

石川明人『宗教を「信じる」とはどういうことか』(2022 ちくまプリマー新書 39頁)

信仰というのは100か0でしかない、つまり絶対的なものだと「信じてやまない」私からみて上述の引用は素朴ですがはっとさせられるものがありました。そもそも「信じる」という言葉をどれほど信じるか、ということについてナイーブだったように思えます。村田沙耶香「信仰」もまた、100か0かで苦悩する主人公の姿が映し出されます。彼女にとってカルトに対置される消費社会こそファナティックに映り、消費社会は0でしかない。なぜなら消費社会の差異化のゲームには、真実がなく、真実を裏付けるエビデンスも存在しないためです。

翻ってカルトなら消費社会の抜け道があるかもしれない(100があるかもしれない)と没入していく姿は、100/0の振り子のようです。

ですが、そこには間がない。「信仰」という物語の「核心」は、中間的な立ち位置、視座がすっぽり抜けていることに根ざしていると思われます。物語における「幻想」という言葉が中間に近しいかもしれません。あるいは「生活」という言葉でもいいかもしれない。「「宗教」の現実」は信じる/信じないの二元論で語られがちな宗教のあり方を相対化し、絶対という硬直性を解きほぐします。

ところでこの物語がサイゼリヤの店内からはじまり、金儲けのために宗教が担ぎだされるのは象徴的です。月並みですが、端的にいえば物語は一貫して俗な世界を描きながら、皮肉にも「信仰」と名指され、聖性と呼びうるものは不在となっている。現代において、聖なるものはどこにあるのか。