2024/04/15

ネスター・コルテスの猫投げについ吹き出しそうになる朝。変則もここまでくると楽しい。

https://x.com/mlb/status/1779573251020083588?s=46&t=0rWWoKUVQtej1ux1NZ8x7g

桜も見よう見ようとだらだらやっているといつの間にか散っているのが常で、今年も結局花見はしなかった。

桜坂

桜坂

「桜坂」と聞けばぱっと浮かぶのは槇原敬之だろう。耳にするたび春の別れの切ない条件に、いつも連れ出してくれる。

 

今日はすっかり初夏の色合いで、街の華やぎを感じた。学校の近くの公園で、子どもが「いれて」「いれて」と連呼していて、それは遊びの輪に入るための合図だった。勝手に入ったらいいじゃん、と思いながら、でもいちいち意思を伝えないとと仲間に入れないのかな、いれてって言えないとずっと輪の外なのかなと思いながら、どちらかというと輪にスムーズに入れる子よりは入れない子に目がいった。

夜の手触り——鈴木涼美『トラディション』

 

中には何度かこの紙の上にだけ現れて、姿かたちを見せることなく消えていく名前もある。いずれにせよどの名前も、ぎざぎざした人生を背負うものではなく、つるんとした作り物の響きしか持たないのだから、私は平気でそれらの文字に線を引いたりバツ印をつけたりする。

鈴木涼美『トラディション』(講談社 2023 5頁)

夜の街のスケールとは裏腹に、1本のボールペンと紙のメモというミニマルなパーツへのフェティッシュから物語は始まる。

 

ホストクラブの客たる「姫」の記号的な名前は記号のまま、紙の上に浮かんでは消えていく。端的にいえば、紙とボールペンに夜の街が集約されているのが大事なのだ。けばけばしい電飾、刺激、渦巻く欲望——こうした夜の街のダイナミズムは紙とボールペンのささやかな動きで成り立っている。

 

さらに読み進めると(ジンメル貨幣論なんか読まなくても夜の街が教えてくれる)、姫の価値が貨幣に還元されるような単純な図式ではなく、「[...]紙幣で売られているものと買われているものが何であるか、紙幣と共に自分が手渡したのが何であるのか、一体紙幣はどこに行くのか。それさえ問わなければいい。」(37頁)とホストクラブの出納係である主人公の女はいう。その街で反省してはいけない、自分にレ点を打ってはいけない。自分を省みることが、自分の綻びにつながるような、摩擦なく直進を求められる街の論理に対して、出納係の女にちらつくのは皮肉にも過去の影だ。

 

女の彼氏のホストは他の女の経血を付着させながら、あっけらかんとしている。この経血を憎たらしいくらい偏執的に(もちろん著者は確信犯的に、嬉々として)連呼する。あるいは幼なじみの祥子の母の傲慢さ、不慮の事故で顔に傷の残った祥子、そして主人公の衰弱した祖母——街の論理に対して、彼/彼女たちは女の過去をいやでも振り返らせようとする摩擦になっている。象徴的なラストシーンも、記憶の噴出で終えるところをみると、記号たる姫の推進力には遠く及ばない。

 

あるいは、物語にかぎ括弧付きの会話文がやけに少ないのも無論戦略的で、会話が会話未満で終わるというか、意味のある言葉の連なりとしいちいち捉えていては街では破綻するのだと思う。それゆえかぎ括弧に包まれた言葉が映えてくる。祥子との再会は物語の印象的な場面のひとつだが、どこか白昼夢のようにぼんやりとしていて、かぎ括弧で祥子の言葉が描かれることもない。街の論理/自分の過去の截然とした境界で煩悶する主人公を思えば、自分の過去に蓋をしたいという抑圧をその場面に感じられる。そしてその抑圧があるからこそ、祖母の「言葉」はぶち上がるものになっている。

 

「中が空洞の箱」(30頁)よろしく、フィクションもまた、「空洞の箱」だと唾棄される昨今、何度も何度も省みを求められる意味の充満した昼の街だけでは退屈なので、夜の無意味な空洞を愛する人たちがいるのだし、そんな人たちを大きく抱きかかえられるのが、フィクションの懐の広さだ。

 

 

2023/11/08

金原ひとみ『腹を空かせた勇者ども』を読む。終盤味の薄くなったオレンジジュースに文学的なフェティッシュを感じて嬉しくなってしまう。たとえば、『桜の園』や『ブレックファスト・クラブ』における精神的去勢を描くワンショットなんかを思い出したりしていて、つまり、過去には戻れないのだ、ということだけれども、それらこれ見よがしに配置された決定的瞬間ではなくて、あくまで何気なく、物語を邪魔しないように配置された氷だらけのオレンジジュースにただならぬ意味を読み込んでしまって、いけない。

思えば金原ひとみ初期における自己との葛藤、母である/母になることの葛藤(特に『マザーズ』を思い浮かべている)、そして母/娘の葛藤のみならず娘の視点から彫琢される母の姿という変遷が、凡庸ながら著者の変遷とも重なっていて、凡庸な見立てながらグッとくるものがある。とはいえ、分かり合えない他者と「私」はいかに折り合いをつけていくか、割り切れない人生とどう向き合っていくかというテーマは最初期から一貫していると思うけど、初期の攻撃的なフラグメントの間歇的応酬に比べると、物語を志向していると思う。この場合物語とは、他者やコミュニティー、とパラフレーズしてもよい。最近の金原作品は連帯への志向性が強く、初期から考えると(いい意味で)信じがたい。

読書会の課題本だったので本屋さんでさくっと手にとると、ユリイカの特集が金原ひとみで即買った。

 

2023/11/07

ウィンストンのスパークリングメンソールを吸い尽くしてしまってつらい。もう7-8年ちかくお世話になっていたのにそれはないよ。直感でヴァージニアのローズを吸ってみたけど、違った。燃焼の速度に嫌気がさす。学生のとき吸ってたパーラメントのメンソールに出戻り、やっぱり違うなと思い反動でマルボロ12mmを吸っている。違う。