2025/11/08

英明は掌で鼻と口を押さえつけたまま、急ぎ足で駅に向かった。青くすら見える星がさえざえと光る冬の夜空の下を、どこかの工場からのガーン、ガーン、という音が、低く鈍く響いていた。

鷺沢萠「朽ちる町」『帰れぬ人々』

 

お見舞いに川崎へ行った。川崎に行くのは2回目。京浜工業地帯、というのが僕の川崎のイメージで、つまりどこか灰色の工場、吐き出される無数の煤煙、極彩色のコンビナート、ということだけど、駅前は綺麗に整備されていて、確実に人の息づかいがある。

 

何より素晴らしいのがコンビニの前に喫煙所を置いてくれていること、しかもその数! なんて寛容なんだとついうれしくなってしまう。少し前の池袋を思い出していた。そうなんだよね、東京を抜けるとタバコに結構寛容だったりするんだよね。それがクールジャパンでしょ。嬉々としてストロング缶を喫煙所でやってしまう。呵々!

 

お見舞いに行ったあと古本屋で見つけた鷺沢萠をぱらぱら読んでいる。こんな軽やかな文章を書く人が、同時に信じ難い闇を抱えていることへの戸惑い。

 

ただ、愛している相手に対する最低限の礼儀として、一緒にいるならせめてつまらなそうな顔をするものではない。「自分しか見つめていない目」を感じれば、それはやっぱり嬉しいものだ。

[...]

だから。

待ち合わせた場所で恋人の姿を見つけたら、最高の笑顔を見せてみよう。

ふたりでいられる大切な時間を、つまらない意地やツッパリで台無しにするのはもうやめよう。

そうして、町へ出て、ほんとうにこの人が好きだと感じる一瞬が訪れたなら、頬でもいいから、キスをしよう。

鷺沢萠「町へ出よ、キスをしよう」『町へ出よ、キスをしよう』(新潮文庫)

 

この軽やかさって奇跡だよね。

 

川崎という街は鷺沢と似ている。無論「朽ちる町」 は川崎を舞台にした物語だ。表面的に洗練されていて疑いの余地もなく明るく、柔軟なのだけど、一歩路地に踏み出せば深い闇。光/闇の残酷なハレーション、それらの溶け合うことのない両立。しかしまあ裏路地は、あ、これ以上進むとやばいな、と直感的に後退りする。

 

清水邦夫の都市論的テーゼ、要約すれば「街には闇が必要だ」ということを反芻している。"enlightenment"という英単語は示唆的だ。「無知の闇に光を照らす」。もっと光を。最後に再度鷺沢を引用する。

 

暗くなった町の中を、大通り沿いの街灯だけが黄色く濁って光って見えた。うるむそれらの光を見ていた英明の耳に、その昔の遊廓の、華やかなさんざめきが聞こえた。その音はやがて大通りを走る車の音と重なり、輪を拡げて英明のまわりを取り巻いた。 英明はふッと前を向き、そうしてからもういちど後ろを見やった。騒いでいた町は突然音を立てるのを止め、英明に見られているのを知っているかのように息をひそめた。

鷺沢萠「朽ちる町」『帰れぬ人々』

 

 

 

 

 

 

月が異様にデカくてびびっちゃたり

今日のハイライト。

今日の月の美しさったら。

 

 

思えば震災から何が変わったのか、何も変わらないことへの諦念ってこの国特有のアイデンティティーだと思っていたけどマーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』は勝手に内面化されていた諦念を相対化する鍵だったのかも。

 

 

フィッシャーをシティポップでくるむアイロニーね。

 

 

血に膨張した月を称えながら。

2025/11/06

ヘルプマークをぶら下げ脚をドカッと電車に広げる殿方はヘルプマークを免罪符かなんかだと勘違いしている(いつか『緋文字』の「A」のようになればいいですね笑)ヘルプってのは「想像力の致命的な欠如にご配慮=ヘルプください」って意味なんですね、そうですよね? じゃあみんながみんなヘルプマークをつけた途端、無作法は赦されるってことで。人が自分で考えることを放棄し記号の有無で人をジャッジする、当人は記号を過剰に内面化し、他者へ貧しい想像力を押しつける。見えてれば権利、素晴らしい!

偏狭に偏狭、まったく。嫌になるね。

 

今日の美しいハイライト

 

直截的、教育的

私はなぜか好きになるひとが全共闘世代だったりするんだけれども、彼らの好きなところは単刀直入なところですね。いきなり「あんたはなぜ生きてるの」なんて質問を無神経かもしれないけれどもしてきて、そこからつきあいがはじまるみたいなところが、私は好きなんです。肌にあう。 私の好きな小説にル・クレジオの『海を見たことがなかった少年』というのがあるんです。孤児の少年が出てくるんですが、その少年ははじめて会ったひとに必ず「ぼくを養子にしてくれますか」と訊くんです。生い立ちなど何も説明しないうちに。ほとんどの相手は、戸惑ったり、冗談かと思ったり、「そんなのできるわけないじゃない」といったりする。それでも、とにかく「ぼくを養子にしてくれますか」という質問をするんです。私が好きなのはそんなふうなつきあい方なんです。つまり、有無をいわせず決定的な関係を直截につきつめるところからはじめる──。だから私は古いといわれたりするんだけれども。

(柳美里『自殺』文春文庫 強調引用者)

 

たぶんコロナのすぐ後くらい、会社の後輩に誘われていわゆる「意識高いサークル」の飲み会に行ったことがある。僕としては「参与観察」のつもりで、後輩としては比較的自己啓発に関心があり(今、後輩は会社にはいない)、7、8人の同世代の男女とあーでもないこーでもないと話していたのだけど、一人なんとなくリーダー格の女の子がぼそっと、「授業の50分なら50分のなかでどれくらい濃密にコミュニケーションできるんだろうか、甘ったるい道徳ではなく、ある深いテーマを真剣に議論させた方がいいのではないか」と話していて、僕も同感だった。「甘ったるい教育」はシリアスな問いを許しそうにないが。聞けば彼女は元教師だったらしい。

 

柳美里が「有無をいわせず決定的な関係を直截につきつめるところからはじめる」というとき、念頭に置かれているのは自殺の観念に思われるが、柳は続けて、せっかく会えたのだから、なぜ生きているのか、死ぬのか、刺しちがえてもいいから訊きたいと続ける。

 

ところで『自殺』というテクストが柳の高校での授業・ 生徒へのインタビューをもとに構成されていることは非常に示唆的だ。自殺という問いは「甘ったるい教育」の「氷を打ち砕く斧」(カフカ)でなければいけない。生/死の実存的課題を「刺しちがえても」知りたいという彼女のスタンスは挑発的だ。温室栽培の義務教育(とはいえ温室でもないのだが)で「人生の深いテーマ」を煮詰められるのだろうか。彼女の言葉は教育のお飯事を鋭利に相対化する。

 

そんな温室栽培のなかで、小学5、6年だったと思う。国語の授業で宮沢賢治「やまなし」が扱われていて、僕はこの小説の幼稚な言葉づかいに辟易していた。なんでこんな子供じみた話を今さら浴びせられなければいけないのか。唾棄してもよい。しかしクラスの男の子がぼそっと、水中の花びらに「弔い」という意味を付与してから垂れる(学習指導要領的な?)担任の興奮、授業は沸いていたと思う。思えば死のことを漠然と考え出したのがその時くらいだったかもしれない。氷を砕く斧とまで鋭くはなかったけれど。

 

柳は『自殺』の中で「人生の中に自殺をプログラムすることが生の活性化につながる」 と説く。自分を根底的に覆してしまうような力が、実は自分に渦巻いているのだと悟る瞬間の恐ろしさと、しかしそんな力がむしろ生を一層輝かせうるとときめいてもいいと言い放つとき、要するに死を自覚するときはじめて生は脈打つということだ。

 

より一層温室栽培を求められる今だから、危機と隣り合わせにある柳の言葉が身にしみるのだし、そうした言葉が教育の現場で為されることの意味は「クリティカル」だ。

 

 

多声的沈黙、クローズドダイアローグ――金原ひとみ『YABUNONAKA―ヤブノナカ―』

「性加害/被害」を描くことは、語りの倫理そのものを問う行為である。被害を「表現」することが同時に、他者の痛みを再演する危うさをもつ以上、その語りは常に倫理的な危機と隣り合う。金原ひとみ『ヤブノナカ』は、その危機を安易に回避せず、むしろ語ることの不可能性を引き受けながら、物語を紡いでいく。ここにあるのは、被害/加害というスタティックな構図ではなく、時間的・関係的にずれ続ける "痛みの運動" である。

 

物語の根底にあるのは、過去の出来事が現在を侵食し続ける「通時的な時間」と、登場人物たちが互いの関係性を通じて同時的に苦しむ「共時的な時間」の交錯だ。金原は、この二つの時間を極度のテンションのうちに絡ませながら、通時/共時をともに乗り越えうるフィクションの可能性を追う。過去の傷は単に記憶として閉じられず、現在の対話の中で何度も再演される。そのとき、物語は被害の再現ではなく、痛みのリプレイスとして立ち上がる。

 

『腹を空かせた勇者ども』において金原は、母と娘の関係性を描きながら、血縁の愛憎を主題化していた。『ヤブノナカ』ではそこに、一哉というパートナーの視点を導入することで、母-娘の関係の相対性を拡張する。彼の語りは、被害者の声に対して対立的でも共感的でもない中間地帯に位置する。その曖昧な視線が、物語を単一の道徳的軸から解放し、複数の「語り得なさ」を生む。

 

金原のキャラクタリゼーションにおいて特徴的なのは、理解や共感が物語の救済ではなく、むしろその拒絶が推進力になる点だ。登場人物たちは互いを理解しようとしながら、理解できないことに突き動かされる。理解の不在が関係を断絶するのではなく、むしろ、逆説的に関係を持続させる装置として機能する。

 

友梨奈が言語化に拘泥し溺れかけるような場面は如実に理解の不在=饒舌を物語る。痛みをクリアに言語化すればするほど受け手の無理解に漂流する彼女の姿は、SNSに代表される現代に蔓延する言語化オブセッションと重なる。補助線として、草野なつか『王国』では、カップルのコミュニケーションを、すべてがすべて言語化できるというのは暴力であり、むしろ言葉にならない澱が関係性を継続させ鍵なのだと説く。

 

金原の作品における「沈黙」は、単なる抑圧や諦念ではなく、非言語的な交感の残響として描かれる。沈黙とは語らないことではなく、「まだ語れない」状態の延長にある。だからこそ、沈黙の場面には痛みとポテンシャルの両方が宿る。

 

終盤にかけて、伽耶の語りが後景化していく構成は象徴的である。語る主体の消失が、逆説的に多声を生む。声が消えるとき、物語は一人の語り手に帰属しえず、複数の声が響き合う空間として開かれる。作中に散見されるドストエフスキーから、バフチンを召喚すればこれは端的に「ポリフォニー」である。すなわち、いかなる声も他の声を支配しない構造――声の共在であり、沈黙さえも一つの声として編み込まれる。『ヤブノナカ』の登場人物たちは、誰もが物語の中心に立つことなく、互いの憎悪と沈黙の中で共鳴する。そこに勝者も、倫理的優位も存在しない。むしろ憎悪と沈黙こそが語りの真の厚みを保証している。

 

東畑開人が『カウンセリングとは何か』で述べるように、カウンセリングの本質のひとつは「古い物語を脱ぎ、新しい物語を生き直すこと」だとすれば、『ヤブノナカ』はその逆を行く。登場人物たちは古い物語を脱げず、むしろ何度も引き戻される。彼らの「物語的遡及性」は、外部的な暴力によって妨げられている。木戸が口にする「個人の物語が大事だ」という言葉は、そのコンテクストにおいて鋭利な皮肉である。個人の物語を信じる者が、「加害」の側に立ってしまう危うさ。

 

金原ひとみの小説世界には、デビュー作以来一貫して「語りの不信」と「身体の過剰」が同居している。『アッシュベイビー』における精神的破綻と暴力性な性愛、『ハピネス』における幸福の不穏も、いずれも語りの外側に押し出されたオミットされた「声の回帰」として読むことができる。『ヤブノナカ』は、それらを下敷きに置きながら、より多声的で、より倫理的な次元に踏み込んでいる。被害と加害、語りと沈黙、理解と拒絶――それらのあいだに引かれた細い線を、無論金原は確信犯的に曖昧化していく。言うまでもなく「藪の中」である。そこにあるのは、癒しの物語ではなく、癒しそのものを拒む物語である。

 

『ヤブノナカ』は、語りの限界を示すと同時に、それでも語らざるをえないという人間の欲望を可視化する。理解されないまま、それでも他者と交わること。沈黙と声のあわいに立ち上がるその瞬間こそが、金原ひとみの文学が辿り着いた「声の文学」の現在形である。

「 早く知ってほしい」 「何を?」「 絶望を」

「駅はこっちでーす」と華やいだ声で先導するリクルートスーツの女の子は齧歯類の愛おしさを振りまいている。がやがや談笑の輪が改札前に広がっている。

 

「こっちでーす」だってよ、カワいいねー、と横切る殿方たちのはにかみ。どこか心もとないステップで車両を移動するのもやはりリクルートスーツ。

 

月末月初で剥き出しの神経に突き刺さる高揚感華々しさ希望――そそくさと俯いてはしたない罵詈雑言を噛み締めながら、車窓に憂鬱を溶かしていく。大丈夫、ショーペンハウアーによれば「憂鬱は知性の優位」だから、世界への鋭い感性の証だから大丈夫。

駅の大きなスクリーン【LINEで友だち募集中】うるせえよ

 

「新入り」を嘲笑う日本の風潮はグロテスクである、といつかのTwitterでバズっていたのを思い出したが、新入りを新入りたらしめる画一性=規律のグロテスクというのは当然あるし、リクルートスーツというのはスティグマにしか見えない。

 

服装が嫌でも示してしまう社会的コノテーションとそれを安易に読み取ってしまう僕のグロテスクというのはあるが、往々にして新卒というの群れるものだし、群れているときの視野狭窄ったら端から見ればかなり厳しいものである。故に改札前のナチュラルなバリケードへ中指を立ててやっても、観念の火炎瓶を投げてやっても概ね差し支えないだろう。剰え齧歯類にゃんが2年目の甘ったるい余裕を醸し出すツアー観光へ苦虫を噛み潰すのは、黄疸ソウルジェムの10年目からすれば至極当たり前のことだ。大人げない。

 

三角みづ紀の『オウバアキル』か『カナシヤル』だったと思うけど、子供に早く絶望を知ってほしいという一節があって、異様に暗くて好きだが、濁り出してからが「象徴界」入りなんだと思っていて、摩擦なくどこまでも滑っていける人たち(無論僕もそうだった)へ、早く絶望を知ってほしいと偏屈を押し殺している。

 

 

2025/09/12 虚無に熊

終電。残業'sハイからの虚無。「残業キャンセル界隈」を絶対殺す福。熊みたいな屈強な男が電車の座席にしなだれ「ごめんね! ごめんね!」と連呼している。いや熊なのかもしれない。虚無に熊。缶チューハイでも飲んで鬱屈を拭い去ろうかしらなんて目論んでいたが駅の店はどこも閉まっていた。いいね。

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