触れない関係、測られる距離――村上龍『テニスボーイの憂鬱』

村上龍の『テニスボーイの憂鬱』(1985)は、バブル前夜の横浜を舞台にした、倦怠と空虚に満ちた青春小説として読まれることが多い。性的な苛立ち、目的のない会話、どこへも向かわない時間。そうした空気は、後年のミシェル・ウエルベックが描く世界をどこか先取りしているようにもみえる。

しかし、ウエルベックが性的市場や経済合理性のなかで人間の孤独を描いたとすれば、村上龍が見つめていたのは、より身体的で、より根源的な問題だった。それは、人はどのような「距離」を保ちながら他者と関わるのか、という問いである。

そのことを最も鮮やかに示しているのが、作中で語られる格闘技についての一節だ。

 

「格闘技は下品だ。……相手のからだに直接触れて倒すということは、それだけ相手との関係性を信頼しているということで、それが下品だと思うのだ。相手に甘えているのである。関係に甘え、飢えているのだ。格闘技は、寂しがり屋のスポーツなのである。」


この言葉は、一見すると逆説的である。身体をぶつけ合う格闘技こそ孤独で過酷な競技だと考えられるだろう。しかし少なくともこの語り手にとって、身体接触とは暴力以前に「関係への依存」を意味している。

ここで問題になっているのは暴力ではない。身体と身体のあいだに、どれだけの距離を置くかという倫理である。


格闘技では、相手の身体に直接触れ、組み伏せ、倒す。その行為は勝敗を競う以前に、互いの身体を受け入れる関係性の上に成立している。だからこそ、この語り手はそれらを「甘え」と見做す。身体を預け、身体を通じて他者を確かめようとする欲望への批判なのである。

対してテニスはどうか。

ネットという障壁を挟み、相手の身体には決して触れない。それでも競技は成立し、緊張関係は持続する。ボールだけが身体の代わりに往復し、ラリーは続いていく。

つまりテニスとは、「触れずに関係する」技術なのである。

この作品の人間関係もまた、テニスのアナロジーを通じその構造を反復している。登場人物たちは会話を交わし、セックスをし、時間を共有する。しかし決定的な意味で互いに触れ合うことはない。親密さを求めながら、親密さそのものは回避してしまう。その奇妙な均衡が、小説全体を覆う乾いた空気を生み出している。


作中で挿入される狩猟のエピソードも、この「距離」という主題から読むと興味深い。

獲物を仕留める行為は暴力ではある。しかし格闘技のように身体を接触させる暴力ではない。遠くから照準を合わせ、距離を保ったまま対象を制圧する技術である。

この感覚は、後の『愛と幻想のファシズム』(1987)の鈴原冬二へと結実していくように思われる。身体を鍛えながらも、身体同士の接触ではなく、距離を制御することに価値を見出す感覚。その萌芽は、すでに『テニスボーイの憂鬱』に現れている。


この非接触の美学を際立たせるために、三島由紀夫をコントラストとして置いてみたい。

三島が繰り返し礼賛したのは、血の流れる身体であり、傷つく身体だった。傷や流血は、観念ではなく身体そのものが存在していることの証明であり、他者との直接的な衝突のなかで実存は初めて獲得される。

三島にとって、血と傷は存在を現実へと引き戻す契機だった*1

一方、『テニスボーイの憂鬱』の人物たちは、その逆方向へ向かう。

ラケットという道具を介し、ネットという障壁を挟み、相手との距離を保ちながら関係だけを持続させる。直接性ではなく媒介性にこそ価値を見出そうとするのである。

両者とも身体を通して人間を考えている。しかし三島が身体の「接触」を思想化したとすれば、村上龍は身体の「あいだ」にある距離を思想化した作家だったと言えるのではないか。


ここで改めて注目したいのは、「ネット」という言葉そのものではなく、媒介される関係という構造である。ラケット、ボール、ネット。

人と人とは常に何かを介して結び付いている。

この構造は、そのまま現代のスクリーン越しのコミュニケーションにも重なる。SNSでは「いいね」や既読、未読、短いメッセージの往還、人は互いに反応し続ける。しかし身体はそこに存在しない。

マッチングアプリでも、多くの場合緊張感が高いのは、実際に会う以前のやり取りである。画面越しに相手を想像し、距離を測り続ける時間そのものが関係を支えている。そして実際に身体が出会った瞬間、想像が現実へ回収され、関係の緊張が急速に失われることも少なくない。

 

触れられないからこそ、触れたいという感情は生き延びる。

『テニスボーイの憂鬱』に描かれたラリーとは、実は欲望そのものを持続させる装置でもあったのである。ただしこの非接触の美学は禁欲主義ではない。

作中の男たちは、性的な苛立ちを隠そうとしない。その一方で、フォームやサーブ、ラケットや試合については驚くほど真剣に、時にはコケティッシュなほど熱心に語る。

精神分析的にみれば、この構図は端的に「昇華」の典型をなぞる。満たされない欲動は、スポーツへ蒸留される。しかし、その昇華は決して完成しない。

テニスに没頭しても欲望は消えない。むしろ距離が維持されることで、欲望は終わることなく更新され続ける。

 

『テニスボーイの憂鬱』が描いたのは、80年代の横浜という一時代の風俗ではない。

それは、人間は他者とどれほどの距離を保ちながら生きることができるのかという問いであり、身体を介さずに関係だけを持続させるという、現代社会そのものの実験だった。

ウエルベックが性的市場の崩壊を描いた作家だとすれば、村上龍はその前段階で、欲望を維持する「距離」の構造を描いていた。

テニスコートのネットは、いまやスマホの小さなスクリーンへとその役割を移したように映る。しかし人と人の距離を測る物差しは、80年代をとうに超えたいまなお更新され続けている。

村上龍が描いていたのは、孤独を克服する方法でも、孤独を維持する技術でもない。人は他者との距離をどのように測り、その距離のなかでしか関係を築けない存在なのかという問いだった。
私たちはいま、ポケットの中の一枚のスクリーンを介して、日々その問いを反復している。触れずにつながることは可能になった。しかし、その距離が何をもたらすのかという問いだけは、なおも開かれたままである。

*1:「集団は、言葉がどうしても分泌せぬもろもろのもの、あの汗や涙や叫喚に関わっていた。さらに踏み込めば、言葉がついに流すことがなく流させることもない血に関わっていた。いわゆる血涙の文字というものが、ふしぎに個性的表現を離れて、類型的表現によって人の心を搏つのは、それが肉体の言葉だからであろう」(三島由紀夫「太陽と鉄」『三島由紀夫スポーツ論集』岩波文庫 1968=2019)

2026/05/21

山ほど電話をかける。何回もかけていると同じ内容の説明でも段々洗練されていくのを感じる。基本的に電話を受けるのが仕事なので、五月雨式に電話をかけることにためらい。今は電話のスクリーニングというのがあって、出るべき電話か否かAIが一度ふるいにかけてくれるという話を聞いた。自動音声に向かって話すときほど心もとない瞬間はないのだけど、仕事なので。一人で入ったファミレスに自動配膳ロボットが慇懃に配膳していくのも心もとない。かわいいから許すけど。

 

電話という機械で濾過された声には、どことなく非現実的な、いわば金属的な非現実性のようなものがあって、わたしはもし自分の恋を告白するような必要(衝動、と言いなおすべきかもしれない)に恵まれたとしたら、電話を利用することに躊躇を感じないと思う。

金井美恵子「声」

 

ところで声というのにまったくフェティッシュを感じないので、あの人間の声がいいだのなんだのという感覚がまったくわからない。声でいちいち発情できるなんて見上げたもんだよ、声で雌雄を誘き寄せるということを考えると生物的な本能としておそらく正しい。ただあまりにも甘ったるい猫なで声というのには男女問わず咽る。猫なで声とは、猫が発声するからよいのだ。

 

一、声をナチュラルに発している人はバランスのとれた人格の持主と見てよい。

二、声が喉元で抑えられている等、まっすぐに声を発することのできない人はたいてい、神経質で内向的であるか劣等感を克服しきれないでいる。

三、無闇に口調が明晰な人は楽天的で図太い性格であることが少なくない。

四、発生の粘っこい人は他人への依存心が強い。

五、ヒステリックに聞こえるほど声を甲高く響かせる人は、対人関係にコンプレックスを持っている。

松浦理英子「発声的認識論」『優しい去勢のために』

 

僕は二だ。ところで、僕が解せないのは声の勉強をしていたという後輩が電話になると途端に弱々しい声になることで、これは声の問題というよりは演技で魅せる社会性の問題だったり、仕事の習熟度だったりなんだろうけど、嘘でもいいから声で魅せろよ、と結構苛立っている。

 

高校時代、ストレスから声が出なくなった同級生がいてずっとメールでやりとりしていたのを思い出した(今はたぶん元気)。「声が出なくなったんだよね」というテキストの悲しみったら。中高生のとき、僕はよく金縛りに遭っていて、毎回声を出したくても出せなくて本当に苦しかった。圧倒的な暴力・不条理が声帯を万年力で締め上げるような。メールでお互い悲しみの薪をくべてさ。

 

人間に届く前に、応答に値するかどうか機械が選別する時代。「時代は感受性に運命をもたらす」(堀川正美「新鮮で苦しみおおい日々」)。そのうち声を発する前にテキストを生成し、そのテキストを感じのいい音声が代読するようになるのだろう。


そう考えると、声というのは奇妙だ。人格を裏付ける「真実らしさ」でもって内実いくらでも代替可能、訓練可能、加工可能、演技可能。それでも人は、声に「真実」を期待する。


電話越しの数秒で、この人は信用できるとか、感じがいいとか、冷たいとか、気が弱そうだとか、勝手にジャッジする。たぶん僕が後輩に苛立っていたのも、声を聞いていたというより、「社会に参加する気がある声かどうか」を聞いていたのだと思う。だから声が出なくなる、というのは単に発声の問題ではない。世界との接続が一本切れる、という感じに近い。


声を出せない焦りと悲しみに打ち拉がれて。あれは助けを呼びたかったというより、自分がまだこちら側にいることを確認したかったのかもしれない。

 

2026/04/09

「お母さん人事部でー、そういうのダメって言ってた」

 

と、サイゼで姫方が言っていたので間違いないのだと思う。お母さんが人事部! 最高! 採用! 

 

友人の友人がアル*イダ――

ボコ・*ラム

 

採用じゃなくて給与計算諸々の方じゃなくて? 人事っていっても色々カテゴリーあるしレイヤーあるじゃん。プラス採用っていっても新卒だのキャリアだのあるけど、いずれにせよお母さんが人事部! 最強のカードじゃん! っていうか人前でも「ママ」とか「お母さん」とかカッコいいっす! 僕も人前で「お母さん」と呼ぶね。お母さん! 

 

ジジェク『暴力』を読んでいた。

 

現代の世界情勢に関する批判的分析――なんの明確な解決も、なんの「実践的な」行動指針も提示しない分析、辛苦のトンネルの先にある希望の光がわれわれに向かって暴走する列車の一部であるかもしれないということを自覚しているがゆえに、そうした希望の光を与えない分析――は、たいてい非難される。「なすべきことはなにもないといいたいのか。ただだまって座っていればよいのか」と。これに対しては、勇気をもってこう答えるべきである。「その通りだ!」と。「実践的」になすべき唯一のことが、直接的関与という誘惑に抵抗すること、そして辛抱づよい批判的分析によって「静観」することであるような状況は、存在するのである。

スラヴォイ・ジジェク『暴力 6つの斜めからの省察』中山徹 訳(青土社 2010 ボールドは訳文では傍点)

 

ジジェクは逆説ばっかりで、結局言葉遊びの人って感じだし時事的な話題になんやかんや「批評」の色をつけてやってる人って感じだけど(mbti*1でいうentp*2とか?)、「真面目な」左派のコミットメントへの強調にはうんざりしている(右派は遡上にあげるまでもないけど)。

 

繰り返し指摘してきたように、コミュニケーション資本主義の時代は、強いられた個人性の時代である。つまりそこでは、「個人的なことは政治的なこと」という支配的な権力構造を擾乱するための問題提起が、「政治的なことは個人的なこと」ないしは「個人的なことのみが政治的なこと」という、個人主義を基盤にしたアイデンティティ政治へと反転されてしまうわけである。だが、政治的なものとは本来、個人的なものを突破して、未来の横断個体性に向けて開かれていく運動であったはずだ。逆にいえば、個人性とは共有地としての集団性を囲い込むための形態にほかならないのである。その意味で、個人化の強制は群衆の囲い込み運動に等しいとも言えよう。

水嶋一憲「転形期の未来 新反動主義かアシッド共産主義か」『現代思想 2019年6月号 特集=加速主義——資本主義の疾走、未来への〈脱出〉』

 

水嶋先生が連帯という言葉に慎重なのがいいと思う。

 

 

*1:正確には16Personalities

*2:ちなみに僕は生粋のentp

化粧

化粧を始めた。

クレンジングクリームを、顔全体にのばし指先で輪を描くようにしてマッサージする。ガーゼでクリームを拭き取る。化粧水をつけ、乳液をつけ、トーニングローションをつけて肌を引き締める。メーキャップベースの少量を指先に取り、隙間なくのばして化粧の下地をすませた。コンパクトを開ける。スポンジにファウンデーションをつける。ゆっくりと丁寧にスポンジを動かし、肌の光りを抑えていく。右頰、左頰、鼻筋、額、そして顎……。鏡に、ただ白くのっぺりとした顔が映る。一息をつき、口紅のキャップを取る。 ここ数年、化粧の順序は変わっていない。順序を守ることを、私は私に言いきかせていた。

まず紅筆で、唇の輪郭だけをなぞっておく。次に唇はそのままにして、アイシャドウをつける。両瞼を見比べ、シャドウの濃さや目尻の線の仕上がりを確かめる。まつ毛をカールする。マスカラをつける。下瞼のまつ毛には慎重になった。マスカラのつき具合いで気分が全く違ってくる。目の化粧をすませ、また紅筆を取る。丹念に口紅をつけ、化粧を仕上げていく。

鏡の中の私は、黙ったままだ。

李良枝『刻』(講談社文芸文庫)

 

意外と化粧をするときの息づかいがフィクションに出てこないことに気づいた。李良枝はその点特異な作家だといえる。無論「刻」というだけあって、化粧は生活のリズムを織りなす行為のひとつになっているのだが、李良枝はこういう生活のディテールを描くのが非常に巧い。形容のいやらしさがまったくない。

 

化粧を始めた。次に女性と仲良くなる機会があれば、あるいは美意識の高い男性にめぐりあえたなら、化粧について凄く聞きたいと思っている。化粧するとき何に気をつけてる? ポイントは? 時間ないときは? 諸々。知人が日本化粧品検定1級というのを持っていることを自慢されたのだが、そこから火がついて自分でも化粧してみようと思った。今までは日焼け止めどまりだったけど、地下鉄の車内CMで男性が化粧してるのを見たのも大きかったかもあるいは鈴木涼美『トラディション』もAV女優のメイクの話だったではないか。君島大空が化粧してるのもグッときたし。下地は整っていた。

 

とりあえずBBクリームを買ってみて(今は雪肌精のwhite BBクリームに落ち着いた)、塗る。めちゃめちゃ難しい。うまく顔全体に広がらなくて、何かムラが出るのだ。唇へいやにクリームが侵食してしまってお化けじゃん、と思う。

 

ヒントになったのが、レイチェル・リアーズ『レボリューション 米国議会に挑んだ女性たち』(2019, Netflix)で、オカシオ・コルテスが手の甲から、さくっと顔にクリームを振り分け塗っていくシーンだった。ああ、こうやって塗ればいいのね! 全然映画の本質ではないところでときめいてしまったのだが、とりあえず真似してみると結構いい感じで塗れる。化粧つってもベースメイクだけど、明らかに顔はトーンアップしてるし、シミも目立たなくなってこれはいい! と思っている。

 

今まで直截に指摘されたことはないが、職場の鋭い女性に「あれ? なんか顔変わった?」と言われたのが肉薄。「 え? 目おかしくなったんじゃないですか?」と返す可愛げのなさったら! かわいいはつくれる、とは。

 

「BBクリームだけ 時代遅れ」みたいな検索サジェストへ妙に動揺したが、とりあえず当面のあいだやり続けてみたいと思う。

 

 

「今夜死んでもいいから/きれいになりたい」

さすが天才、中島みゆき。

 

 

ハルジョオン・ヒメジョオン

たいていの場合、と口に出してみる。たいていの場合、別れに意味をもたせることに人は失敗する。おおむね別れに意味などない。出会いがあれほど齎した意味に比べたら、すり切れ、味のしなくなったガムが別れだ。すぐ吐き出せ。

 

週末通っていたお店のご店主から、夏には店を畳むですとご報告。まともに話したのは初めて。「え! 嘘!? なんで!?」と思わず声が出る。ネガティブな理由ではなく、海外からヘドハンがありアメリカもしくはシンガポールの外資系へ行かれるとのこと。春は別れの季節ですね。枠にとらわれない商材の意外性のみならず、地域へのコミットメントなどたぶん経営がうまい人なんだろうなあとなんとなく思っていたけど、優秀な人ほどドメスティックな市場は見限るよね。うれしい半分、さびしい半分、僕は始点にも立てていないじゃないか、とふと我にかえる。

 

あれ、別れにも意味がある?

 

 

 

鈍麻

空爆と開花予想が併存する世界。谷村有美の「一緒に暮らそう」(『愛する人へ』1992)って曲が凄く好きなんだけど、1番のあたたかくメロディアスな曲調で生活の彩りが語られるのに対し、2番の頭から「戦争が始まったと臨時ニュース*1を聞いて/大切な人に気がついたの」と、いきなり不穏な影に覆われる。むろん、この戦争とは湾岸戦争*2であり、この歌詞のあとにどこか生活と愛へ内閉していく歌詞が続く。

 

戦争を梃子に大切な人を思い出す、というのを端的に「おめでたい」と唾棄してしまえばそれまでだが、この圧倒的な暴力ないし無秩序へ抗う力としてミクロな「愛」 や「生活」が対置される話で僕が頭に浮かんでいるのが三浦玲一『村上春樹とポストモダン・ジャパン: グローバル化の文化と文学』における抗い難いネオリベラリズム=イデオロギーに対置されるミクロな「愛」と愛への内閉の論理で、あるいは岡田利規『私たちに許された特別な時間の終わり』における戦争とラブホテル(=空爆と開花予想)の乖離を考えている、と車窓から見える赤々と染まった半月。年度末の残業は月を赤く染める。

 

 

 

*1:「臨時ニュース」というのは、90年代のミスチルやイエモンよろしく、JPOPのなかで不穏さを表す共約的なツールとして表象されていた。それがテレビの臨界点のような気がする。一方、SNS時代においてはむしろ臨時ニュースが常態化するようなフローの速さ、当たり前のように臨時に接続させられてしまうことを考えると、90年代の不穏さとSNS時代の不穏さ、どちらがグロテスクだろうか

*2:ボードリヤールによれば戦争はメディアを介したシミュラークルとなっており、その意味で「湾岸戦争は起こらなかった」。ところでホワイトハウス公式がゲーミフィケーションでもってプロパガンダを展開するのもシミュラークルであり、だけど第二次大戦のディズニーのプロパガンダは? アメリカにとって戦争とは? 戦争を娯楽化するような指導者を「民主主義」が生むことの皮肉。だけど皮肉を指摘して問題を整理したことになるのだろうか