道があまりにも大きくて困ります——福永武彦「冥府」

最初はカフカの二番煎じみたいでうんざりしかけた。雑に要約すれば暗い『ワンダフルライフ』であって、死後の世界をテーマに記憶の想起/忘却のドラマが展開される。主体性を剥奪されたうえで、ぼんやり出番を待ち続ける(出番はやってこないのだが)生のあり方というのは何か現代にも通じる部分がある。あるいは現状を相対化できているにもかかわらず、前進できない生の困難、永劫回帰に打ちひしがれる人間の凡庸さといってもいい。変わっていく女を変われない男がしみったれたロマンでもって把捉しようと躍起になるが、所詮夢想は儚く、夢想の陳腐さが絶望感に拍車をかけている。打ち砕かれる思いの寂寥が、茫漠とした世界へ皮肉にもリアリスティックに映る。

 

道はいつしか大通りに出て、自動車が時々短い警笛を鳴らしながら疾走していた。しかしその自動車さえも、通行人と同じように、どこか活気がなかった。つまりスピードが自動車の持つ本性だから、しかたなしに走っているとしか見えなかった。止っている自動車は、だから一層惨めに見えた。僕は止っている自動車の中を覗き込んだが、そこには運転手も乗客もいなかった。止っている自動車は建物と同じように単なる物にすぎなかったし、走っている自動車は通行人と同じように惰性的な機械のように見えた。

福永武彦「冥府」『夜の三部作』

 

自動車の骸が走る街。物がまざまざと輪郭を見せつける。惰性が蔓延るのはそれが死後の街であるからに他ならず、死がないのであれば死に相対する生もそこにはない。生/死の宙吊りを為す術もなく漂う人々。

 

道はやがて通りに出た。両側の店は半ば眠り半ば起きていた。起きている店には仄暗い電燈がともっていた。自動車がヘッドライトを閃かせながら走り過ぎた。人通りもまだ多かった。歩いている人たちは、街々が半ばまどろんでいるのに、夜を徹して休むこともなく道を歩いているように見えた。彼等の首は肩の中にめりこみ、彼等の背は前に屈んでいた。それは何等かの観念に追い詰められた動物のようだった。しかしこれらの獣を追う猟師の姿はどこにもなかった。僕も亦追われている一人だった。夜の更けた街を、こんなに沢山の人たちが黙々と歩いている光景は僕の記憶にはなかった。それは異様に気味の悪い光景だった。連れ立って歩いている者も、立ち止っている者もいなかった。群集はみな足を動かし、どの一人も他人に対して孤独だった。

同上

 

やはり「道」を主語に据え置くことで、その場にいるはずの「私」は徹底的に矮小化された印象を受ける。私が踏み鳴らすはずの道ではなく、道にプレゼンスを譲ってしまうくらい私はおぼろげな存在である。「半ば」の過剰な多用も街の不明瞭な印象を強める。足を動かすことに躍起になる人たちは「観念に追い詰められた動物」と、街の希薄な輪郭に対し剥き出しのグロテスクなイメージで応える。目的もなく歩かされること、立ち止まることのない日々の苦悩。そこには意志がない。

 

[...]僕たちは選択の意志を持つことが出来ない。自分の力では何一つ選び取ることが出来ないのです。僕たちが此所で経験する事件は、すべて僕等が無意識に知っていることばかりです。此所には僕等の意志というものはない。すべての愚劣さは、与えられたもので僕等が選んだものじゃありません。此所では風景は、見えるのであって僕等が見るのじゃありません。

同上

 

死後とは仮借ない受け身であって、愚劣さでさえ、風景でさえ内省し反芻される対象にはなり得ない。ここに亡霊の生の苦しみがある。見えることから見ることへ、見るとは対象を「選ぶ」ことである。ただ、この小説のポイントは主人公が見るという主体性の発露の瞬間、その対象をおそらく永遠に失うことにあると同時に、欲望の萌芽を自覚してなお死後の街から羽化できない閉塞にある。そして望みを温め続ける余地はない。