救済と排除のあいだで息はできるのでしょうか  鈴木涼美「グレイスレス」

※物語の核心部分への言及あり

 

「そりゃあね、人の気持ちなんて言葉にしたって伝わらないのに、言葉にしないで察しろっていうのは贅沢だとは思うよ。でもさ、人の気持ちなんて大体が、嫌よりのイエスか、賛成から気が変わってのノーじゃない?」

鈴木涼美「グレイスレス」『文學界11月号』2022 引用は以下このテキストから)

 

何かと高らかに振り下ろされる、100か0か、イエスかノーかの鉄槌が喧しく「アテンション・プリーズ」な現代において、白/黒の間に本当は様々な色が、グラデーションがあることを説いたのがたぶん鈴木涼美で、今作「グレイスレス」はAVの側から語り得る「化粧」という色彩の緻密で微細的なモチーフはもちろん、「救済と排除に忙しない世相」へ投げられる女優の「CGにせよ、ロボットにせよ、そうなったら化粧はいらないから、私も廃業だね」という言葉は100/0の虚しさをクリティカルに吐露する。

 

水を得た魚のように、記号を華やかに、軽やかに纏っては脱ぎ捨てる著者の魅力的なエッセイ・批評群とは裏腹に、著者の処女小説『ギフテッド』(2022)は記号を抑制し、静謐な文体によって夜の街を成立させていた。今作においても記号は意図的にオミットされ、微温的なトーンでもって、AVの現場が語られていく。「刺激」というクリシェで語られがちなAVをあくまで抑制的に語るのは「商業」という点から「graceless=野暮、不作法」なのかもしれないが、著者は当然のごとく、タイトルへ皮肉と愉しさを込めながら、著者は「グレイスレス」というどこか重々しく陰鬱な物語の覆いを淡々と裏切ってみせる。

 

物語は「父方の祖母の妹」が設計させた*1という「私」の家とAVの現場という一見乖離的な場面を深呼吸のように、交互に、改行し結んでいく。しかし読み進めるうちに、女優にこびりつく精液をめざとく見つけ出す「私」のセンスと家のタイルの摩擦のディテールを敏感に選り分けるセンスが重なり合うことを知ることになる。偶然は必然に変わる。

 

AV女優専属のメイクである「私」、自称「オペラ歌手」の「(母方の)祖母」は鎌倉を匂わせる「日射と騒音から完全に遮断されるように設計された家」つまり「人目を引かない」場所に住み、翻訳を生業とする「母」は娘へスコットランドの「ヒースの丘」から「ありがたい」手紙を送る。

 

《初夏のハイランドを車で走り続けていると何度も見かけるヒースの丘は、遠くからみれば確かに幻想的な色が一面に広がる風景なのだけど、車を降りて間近に見てみると一つ一つの草はものすごく逞しくてあまり色気がない。大切にされて期待に応えようとする上野の桜と違って、誰にも世話なんてしてもらえない荒野で、人に見てもらえるかどうかなんてわからない広い広い空に向けて咲くのだから、誇りの持ち方が違う。》 

 

遠くから刺激的に映る花の、近接しなければ(人目を引かない)見えない逞しさ。女優たちへのメタフォリカルな称揚となっているのはもちろん、「私」もやはり女優たちへの化粧を通じて緊張から顔が柔らかくなる瞬間へ立ち会うこと、あるいは精液や尿や唾液に塗れながらも「[...]身体も性も自尊心も数時間の間は放棄する彼女たちがそれでも明け渡さないものがあるのだとしたら、その片鱗に触れる私は幸運だとすら思う」と女優の身体へふれる喜びを「私」は語る。近くにいるからこそ分かることの尊さへ「野暮」と名付けることができるだろうか。*2一方作中散見される「内/外」「浮かんでは消えていく」「鏡の前に座らず、席の後ろに立つ自分の立ち位置」「淡い光」というアンビギュアスな感覚への偏執は、近接=救済を言祝ぐだけではなく、近くにいるからこそ見えてくる苦しさ、罪悪感の描出であって、単純に、白か黒かで割り切れるものではない。排除の痛みを避けては救済は得られない。作中の後半に「倫理」という言葉が投げかけられるのは、救済と排除の綱を揺蕩う主人公にとって象徴的である。

 

思えば、母を「相談より報告にくる娘になるように育てた」と語る祖母も、ヒースの屈強さに気づく母も、気高く逞しい。後半(快哉というほかない)「金玉を蹴り上げる」引退のAVで、メイクの指名なんてしたことがないと語る「マンコでタバコ吸ったりしてた」女優(「私」と同じ「聖」の字が本名に使われていることにやはり必然を感じながら)も負けず劣らず逞しい。現実感のなさや弱さが彼女たちに付与される物語の前半とはうってかわって、後半は気骨な精神が表れることに、「私」の精神が比例していないわけがない。あっけらかんと仕事を辞める「私」へ最終的に齎される「また気が向いたらいつでもやるよ」という言葉、このころには「グレイスレス」というタイトルの重さはすっかり爽快なものに変わっていて、どこか晴れやかでさえある。全て投げだすような疾走感を伴いながら、また戻る可能性を示唆すること。そしてやはり曖昧なまま、「空腹と眠気」の狭間で幕切れの物語。救済も排除も煩わしいし、曖昧さは曖昧さのまま、割り切れなさを抱えて生きていく生き様は、かったるいイエス/ノーの溢れる世界へ静かに踵を返す。

 

 

 

 

 

 

*1:「建築」がマスキュリンなイデオロギーを放つ領域であるとすれば(対照的に女は内装=インテリアという陳腐なジェンダーロールはないだろうか)、その領域を収奪することはもちろん、AVという男の視線の占有に対し、女の側からAVを語る「私」は、領域をめぐるマスキュリン/フェミニンという領域を攪乱させる。乱交の一場面へ白と黒という印象的な色をかき混ぜながら、「[...]ひとつの建造物のように一体となった」(強調引用者)と語る「私」のセンスは、「父方の祖母の妹」のセンスと重なる。言うまでもなく、重なるということは建築のイメージを示唆する。

*2:もちろんここでは、遠くから刺激しか見えない人たちの大鉈、つまり「AV新法」に対する批判にもなっている。