村田沙耶香「信仰」のための覚書

[...]信徒はそう単純に「信じる」という行為でもってその生活をきれいに一貫させているわけではありません。[...]いわゆる無心論者や宗教批判者たちも気を付けねばならない点だと思います。しばしば無心論者や宗教批判者たちは、信徒たちによる「私は信じています」「信仰があります」という自己申告を、あまりに素直に「信じ」てしまう傾向があるように思われるからです。神を信じていると自称する人たちも、実はしばしば神を忘れ、神を無視する、というのは「宗教」という営みについて考えるうえでは重要な現実です。

石川明人『宗教を「信じる」とはどういうことか』(2022 ちくまプリマー新書 39頁)

信仰というのは100か0でしかない、つまり絶対的なものだと「信じてやまない」私からみて上述の引用は素朴ですがはっとさせられるものがありました。そもそも「信じる」という言葉をどれほど信じるか、ということについてナイーブだったように思えます。村田沙耶香「信仰」もまた、100か0かで苦悩する主人公の姿が映し出されます。彼女にとってカルトに対置される消費社会こそファナティックに映り、消費社会は0でしかない。なぜなら消費社会の差異化のゲームには、真実がなく、真実を裏付けるエビデンスも存在しないためです。

翻ってカルトなら消費社会の抜け道があるかもしれない(100があるかもしれない)と没入していく姿は、100/0の振り子のようです。

ですが、そこには間がない。「信仰」という物語の「核心」は、中間的な立ち位置、視座がすっぽり抜けていることに根ざしていると思われます。物語における「幻想」という言葉が中間に近しいかもしれません。あるいは「生活」という言葉でもいいかもしれない。「「宗教」の現実」は信じる/信じないの二元論で語られがちな宗教のあり方を相対化し、絶対という硬直性を解きほぐします。

ところでこの物語がサイゼリヤの店内からはじまり、金儲けのために宗教が担ぎだされるのは象徴的です。月並みですが、端的にいえば物語は一貫して俗な世界を描きながら、皮肉にも「信仰」と名指され、聖性と呼びうるものは不在となっている。現代において、聖なるものはどこにあるのか。

 

 

2023/08/30

働いた。自分が撮られた写真を見返していて、白髪の多さに驚く。Lシステインの摂りすぎか。でもせっかく白く生まれたので、昔はコンプレックスだったけど、白いまま死んでいきたい。白皮症までいかないし、そこまで白い肌にフェティッシュはないけど。小5くらいの時から鼻に黒ニキビが目立ち、いまだにターンオーバーが乱れると、いや乱れに乱れているが肌荒れで外を出歩く気が失せる。小6の修学旅行のVHS——なつかしい響き——をクラスみんなで観るという機会があり、担任がふと「佐藤若いねえ」と言ったのをよく覚えている、それくらいには若かった顔も、小学生を頂点に頽落の一途をたどったのだから、戻れるなら修学旅行の時に戻りたい。

白さゆえに低学年の時は、ロシアに帰れだとか、もう一人白い同級生がいてロシアンブラザーズだとか、幼いながらにうんざりすることもあったけど、今思えば誇らしい。しかしその時はただただ言葉がなかった。中学までは言葉を持っていなくて、打ちつけられる怒号だの誹りだの、とにかく受け身でしかなかった。自分が受け身であることも理解できていない、これが高校になると途端に状況を俯瞰で捉え返すことになる。

送別会で席をご一緒した方におすすめ本を聞かれたので『それは誠』をおすすめしたら後日メールで『十七八より』を手にとっていただけたみたいであまりの嬉しさに阿佐美景子(一発で予測変換!)三部作通しで読むと感動が大きいですよと結構な熱量で返してしまって、ああやっちゃったなあと馴染みの自己嫌悪、次の日の朝、その方とたまたま入れ違いになりすごく素敵な笑顔だったのであー言葉届いたのかもって、表情ですべて伝えてくれる「それは楓」なのにやらなきゃいけない仕事のことばかり考えていた僕は強張った口角でたどたどしく、ぎこちない「おはようございます」で朝を濁らせてしまう、こうやってだらだら形容詞並べたくなるのって死にたい時か。ロシアに帰らないと。

2023/08/24

花屋に花を頼むのはどこか誇らしい。自分の声音が普段より弾んでいる気がした。

サラマーゴ『見ること』を読み、あまりの素晴らしさに自分にはもったいない物語だと思う。街が変わりつつあるというよりはむしろ、自分が変わりつつあることが街の景色に浮かぶ瞬間の華やぎが鮮やかだ。

 

2023/08/20

この国の住民は憲法で保障された権利を主張する健全な習慣を持たないため、自分たちの権利が停止状態になっていることに気づかないのが当たり前で、むしろ自然ですらあるのだ。

ジョゼ・サラマーゴ『見ること』雨沢泰訳(2022 河出書房新社 49頁)

 

『白の闇』で描かれるのが市民レベルでの混乱なら、『見ること』は政治レベルの混乱だが、白票への市民の落ち着きに対し政治の混乱っぷりが愉快。もちろん上述に対し硬直的な左派の市民的なエリーティズムというか、無関心も政治的反応のひとつと思う立場からすれば「だから何?」とつっけんどんに投げかけたくもなるのだけど、どの国でも政治への苛立ちは比較的似ているのが垣間見えて面白い。

2023/08/20

2023/08/18

ふたつの図書館を、またいで使っているのですが、初めて返却館を間違える。もちろん夏のせい。

サマージャム ’95

サマージャム ’95

手慣れているのか、スタッフの方は電話の声音がとてもやさしく落ち着いている。延長処理までしてもらう。本当に申し訳ありません。

そんな図書館で借りた村田沙耶香『信仰』するすると読めてしまった。『授乳』を大学生の時に読んで以来、なんとなく好きな作家のひとりだけど、著者のことを「クレージー」だと思ったことはいちどもない。むしろ実直な印象さえある。

 

どうか、もっと私がついていけないくらい、私があまりの気持ち悪さに吐き気を催すくらい、世界の多様化が進んでいきますように。今、私はそう願っている。何度も嘔吐を繰り返し、考え続け、自分を裁き続けることができますように。「多様性」とは、私にとって、そんな祈りを含んだ言葉になっている。

村田沙耶香「気持ちよさという罪」『信仰』(2022 文藝春秋 117頁)

 

ここで語られるのは、「クレージーさやか」というメディアの安直なパッケージングを甘んじて受け入れてしまったことに対する自戒・自罰の呪詛だが、なぜか風穴をぶち開けるような解放感がある。シオラン箴言に近しい。又聞きだけど昔、煙草を吸う理由について女性が「私は自分を罰するために煙草を吸っている」と話していたのを思い出す。

ところで、アリ・スミスに倣えば吐き気とは、

[...]吐き気というものを改めて経験するのはそれはそれで価値のあることかもしれない。というのも、吐き気にはある種の快感が伴っていることを彼女は覚えていたからだ。何かを取り除こうとする無秩序な力。あまりにも気分が悪いせいで、生よりも死の方が好ましいとさえ思えるような極限の状態。自身の生死を左右する大いなる力と駆け引きをしていると感じさせてくれる時間。

アリ・スミス『冬』木原善彦訳(2021 新潮社)

と、村田同様解放を志向する力として描かれる。「信仰」「生存」も同様に、目隠しのように自分を縛るルールから解き放たれたいと願う女性が登場する。「信仰」では洗脳されることを自ら望み、「生存」においては新しい階級社会において、固定化されたクラスからの解放を望む。しかし望めば望むほど、加速度的に堕ちていく、渇いていくさまが皮肉だ。特に「信仰」においては、後半の打擲、叫びの暴力性に凄まじいエネルギーが横溢している。

 

 

 

2023/08/17

無論、夏はビールにかぎるが、ここ最近飲んだあとお腹が弱火の炙りみたいに燃えている感じがして調べると膵臓系がやられている可能性があって怖くなり自重。会社の冷蔵庫にいつも入っている上司のウィルキンソンを思い出し、これを飲んでみると喉越しがビール、これだ! 今年の夏はウィルキンソン

掲載時から話題になっていた『ハンチバック』だけど、試し読みで冒頭風俗の記号的描写が鼻についてそこから読めていない。何かと風俗を題材にした小説がここ何年かあるけれど、どうも浮き足だっているというか、実存が軽視されているに等しい。実在といえば、ハンチバックの芥川賞受賞時は当事者性をクローズアップするメディアが目立ったが、端的にいってくだらないの一言で事足りる。つまり本来当事者でなくても当事者のことを語っていいはずのフィクションという形式の自由が、当事者ゆえの強度という言説に回収されることで、形式の弾力が失われてしまうのではないかという懸念がある。しかしそもそも、マスメディアに芸術への批評性を期待するというのが無理な話だけど。

読書会で『それは誠』、作品を「作家の誕生」の瞬間と評して語られている方がいて素晴らしい指摘だと思った。それと同時に、作家の饒舌が一発の瞳に射られ敗北するさまは、「作家の死」と見てもいいと思ったが、その場では言えず、自分の回転の悪さを恥じる。言いたいことっていっつもあとから来るんだよなあ、まったく。

 

表面張力(切実さ/軽薄さ)——乗代雄介『それは誠』

絶対優勝。

 

 

乗代雄介を読んでいると自信が出てくる。それは自分にも世界を愛せるんじゃないかってことで、誠くんの言葉を借りるなら「何かがこみ上げてくる気分」*1ということになるだろう。もちろん誠くんからすれば、こうした胸の高鳴り、高揚感から湧き立つ言葉は「震えた心から出た言葉なんか、僕は信用しない」*2と、ぴしゃりとやり込められてしまうのかもしれないが、それでも胸の震えをゆるしてほしい。フローベールなら感嘆符を高らかに打ちつけるところ、バタイユなら三点リーダーとダッシュの乱れ打ちを並べたくなるところだ。

 

なぜかフルネームで書きつけてしまう小川楓の小悪魔めいた言葉のひとつひとつ、随所に輝く瞳(作中きらめきのイメージが、彼女のサリンジャーへの目配せであるところの落葉に付与されているところに着目したい)もまた、「切実な反射」*3よろしく誠を奮え立たせるのだし、他方「軽薄な条件反射」*4、換言すれば「涎」のようにあふれる自意識が切実さを切り裂いていく——この切実さと軽薄さという分裂が本テクストの特徴的な運動のひとつだ。また涎、涙、溺れる、表面張力、『TSUNAMI*5、舟etc.... と繰り返される水、液体のイメージにも注意したい。特に土曜リップ濃いめの愛すべき高村先生*6の助ける/溺れるという宮沢賢治の逸話から、改行の息継ぎに至るまでの、溺れるイメージの連続の鮮やかな解像度を愛さずにはいられない。この作文が、一緒に溺れてくれた「友達」への長い長い返答なのか、自分の溺れに対する自分への「切実な」返答なのか*7、高村先生の問いかけは本作を揺さぶる大きなテーマのひとつとなっている。それと同時に、高村先生の思わせぶりな言動(冒頭の新聞記者よろしく)には巧妙な作者の影がちらついている。

 

フィクションなのに「それは誠」とぶち上げる著者の憎たらしさ(勿論良い意味で)ったらないのだが、後半に先生のプレゼンスが鳴りを顰めるのも不気味である。

 

それはどこかで先生が、生徒たちを外から見守る人だからなのかもしれない、そして当然、作者の周到な目配せは、フィービーを見守るホールデンを捉えている。

 

落葉のきらめきがあまりにも目映く、きらめきがきらめきを呼ぶように次々とフォロワーが増えていく印象的な場面、4人の高校生はその場面を壊さないように静かに眺めている。壊れそうなものに敢えて触れず見守る姿勢も、見守る人たちの連鎖という気がして、つい嬉しくなってしまうが、作中にはこうした「表面張力」*8の美学が散見される。ラストシーンの踏み込めなさもまた、湛えられた感情が止め処なくあふれそうなところを、(誠の言葉を信じるなら)ぐっと堪えられている。この場面は切実さと軽薄さの往還の頂点であり、最大限の表面張力である。

 

いちいち自分の感情を括弧に入れて、無限に脚注せずには、エクスキューズせずにはいられない、それも誠。孤独というのも意匠(衣装)として、仮面としての被り物にすぎない、その軽やかさへ楓が投げかける「重みがない」というのは絶妙にクリティカルだ。落葉も同じように、軽さのモチーフで惹かれ合う。

 

 

 

*1:乗代雄介「それは誠」『文學界 6月号』(2023 文藝春秋 95頁 ボールドは原文では傍点 引用はすべて本テキストから)

*2:同82頁

*3:同10頁

*4:同10頁

*5:前作『パパイヤ・ママイヤ』における椎名林檎の唐突な引用を想起させる。

*6:山戸結希『おとぎ話みたい』で田舎の女子高生にメルロ=ポンティを貸す殊勝な(洒落た)先生を思い出した

*7:「僕の方の事情だけを手紙という形式に則って一方的に、思いつくまま書いてみるなら——僕は貴方との数少ない思い出を絞って一滴残らず文字に変え、その冷たい艶を潤滑油に、僕を磔にしている釘を一本ずつ引き抜こうとしている——とこんな具合だ。」(乗代雄介「生き方の問題」『最高の任務』2020 講談社 8頁) 溺れると分かっていながらも、水中へ飛び込まずにはいられない、そんな奇特を「作者」と呼ぶのだろう。あるいは、「誰かが文章を書く時、書かれた文章は、その都度の射精のように、当人にとって正しいものとなる。手を動かしている最中どんなにくたびれようと、事が終わってどんな後悔に苛まれようと、その時、その場で、その文章が書かれた瞬間が、当人にとって、正しいものであったことに疑いの余地はないわけだ。しかし、それゆえに、どんなに正しいものを書いたとしても、その正しさはその一時限りで、一生の糧に代入することはできない。その正しさを幾度も更新して、ある物事を表現するのにただ一つしかない『適正な言葉』にたどり着くことを目指し続けるのが、書くという行為が続くということである。(乗代雄介「未熟な同感者」『本物の読書家』2017 講談社 115頁 ボールドは原文のまま) 

*8:「それは誠」31頁