表面張力(切実さ/軽薄さ)——乗代雄介『それは誠』

絶対優勝。

 

 

乗代雄介を読んでいると自信が出てくる。それは自分にも世界を愛せるんじゃないかってことで、誠くんの言葉を借りるなら「何かがこみ上げてくる気分」*1ということになるだろう。もちろん誠くんからすれば、こうした胸の高鳴り、高揚感から湧き立つ言葉は「震えた心から出た言葉なんか、僕は信用しない」*2と、ぴしゃりとやり込められてしまうのかもしれないが、それでも胸の震えをゆるしてほしい。フローベールなら感嘆符を高らかに打ちつけるところ、バタイユなら三点リーダーとダッシュの乱れ打ちを並べたくなるところだ。

 

なぜかフルネームで書きつけてしまう小川楓の小悪魔めいた言葉のひとつひとつ、随所に輝く瞳(作中きらめきのイメージが、彼女のサリンジャーへの目配せであるところの落葉に付与されているところに着目したい)もまた、「切実な反射」*3よろしく誠を奮え立たせるのだし、他方「軽薄な条件反射」*4、換言すれば「涎」のようにあふれる自意識が切実さを切り裂いていく——この切実さと軽薄さという分裂が本テクストの特徴的な運動のひとつだ。また涎、涙、溺れる、表面張力、『TSUNAMI*5、舟etc.... と繰り返される水、液体のイメージにも注意したい。特に土曜リップ濃いめの愛すべき高村先生*6の助ける/溺れるという宮沢賢治の逸話から、改行の息継ぎに至るまでの、溺れるイメージの連続の鮮やかな解像度を愛さずにはいられない。この作文が、一緒に溺れてくれた「友達」への長い長い返答なのか、自分の溺れに対する自分への「切実な」返答なのか*7、高村先生の問いかけは本作を揺さぶる大きなテーマのひとつとなっている。それと同時に、高村先生の思わせぶりな言動(冒頭の新聞記者よろしく)には巧妙な作者の影がちらついている。

 

フィクションなのに「それは誠」とぶち上げる著者の憎たらしさ(勿論良い意味で)ったらないのだが、後半に先生のプレゼンスが鳴りを顰めるのも不気味である。

 

それはどこかで先生が、生徒たちを外から見守る人だからなのかもしれない、そして当然、作者の周到な目配せは、フィービーを見守るホールデンを捉えている。

 

落葉のきらめきがあまりにも目映く、きらめきがきらめきを呼ぶように次々とフォロワーが増えていく印象的な場面、4人の高校生はその場面を壊さないように静かに眺めている。壊れそうなものに敢えて触れず見守る姿勢も、見守る人たちの連鎖という気がして、つい嬉しくなってしまうが、作中にはこうした「表面張力」*8の美学が散見される。ラストシーンの踏み込めなさもまた、湛えられた感情が止め処なくあふれそうなところを、(誠の言葉を信じるなら)ぐっと堪えられている。この場面は切実さと軽薄さの往還の頂点であり、最大限の表面張力である。

 

いちいち自分の感情を括弧に入れて、無限に脚注せずには、エクスキューズせずにはいられない、それも誠。孤独というのも意匠(衣装)として、仮面としての被り物にすぎない、その軽やかさへ楓が投げかける「重みがない」というのは絶妙にクリティカルだ。落葉も同じように、軽さのモチーフで惹かれ合う。

 

 

 

*1:乗代雄介「それは誠」『文學界 6月号』(2023 文藝春秋 95頁 ボールドは原文では傍点 引用はすべて本テキストから)

*2:同82頁

*3:同10頁

*4:同10頁

*5:前作『パパイヤ・ママイヤ』における椎名林檎の唐突な引用を想起させる。

*6:山戸結希『おとぎ話みたい』で田舎の女子高生にメルロ=ポンティを貸す殊勝な(洒落た)先生を思い出した

*7:「僕の方の事情だけを手紙という形式に則って一方的に、思いつくまま書いてみるなら——僕は貴方との数少ない思い出を絞って一滴残らず文字に変え、その冷たい艶を潤滑油に、僕を磔にしている釘を一本ずつ引き抜こうとしている——とこんな具合だ。」(乗代雄介「生き方の問題」『最高の任務』2020 講談社 8頁) 溺れると分かっていながらも、水中へ飛び込まずにはいられない、そんな奇特を「作者」と呼ぶのだろう。あるいは、「誰かが文章を書く時、書かれた文章は、その都度の射精のように、当人にとって正しいものとなる。手を動かしている最中どんなにくたびれようと、事が終わってどんな後悔に苛まれようと、その時、その場で、その文章が書かれた瞬間が、当人にとって、正しいものであったことに疑いの余地はないわけだ。しかし、それゆえに、どんなに正しいものを書いたとしても、その正しさはその一時限りで、一生の糧に代入することはできない。その正しさを幾度も更新して、ある物事を表現するのにただ一つしかない『適正な言葉』にたどり着くことを目指し続けるのが、書くという行為が続くということである。(乗代雄介「未熟な同感者」『本物の読書家』2017 講談社 115頁 ボールドは原文のまま) 

*8:「それは誠」31頁