2023/07/21

とにかく遠く離れた街の話を聞くのが好きだ。そういった街を、僕は冬眠前の熊のように幾つも貯めこんでいる。目を閉じると通りが浮かび、家並みが出来上がり、人々の声が聞こえる。遠くの、そして永遠に交わることもないであろう人々の生のゆるやかな、そして確かなうねりを感じることもできる。*1

エンデの『モモ』を読み、描かれる共同体のゆたかさやゆるやかな生のリズムにほっと一息つきながら、灰色に濁った自分が濾過されていることに気づく。*2社会は有用性つまり効率をだだ漏れの笑みで誉めそやし、秒で返信できたカーポンコピーまみれのEメールには花丸をあげたい。堆く積もった無駄の残骸にきらめく破片があれば、それは読書の時間かもしれない。

 

ベッポおじいさんはモモとの対話の中で、自分の仕事を、部分の積み重ねによって初めて全体が見えてくると語るが、これは読むこと、書くことに似ている。センテンスを追いかけることによっていつの間にか俯瞰できるところまで登ったかと思えば、言葉を積み重ねることによって(言葉が言葉を呼ぶかのように)途端に全体が拓けてくることもある。『モモ』が廃墟を舞台に展開されることは、失われた全体を回復する、想像するという意味で空間的に重要な役割が与えられている。銀行の堅牢さ、廃墟の脆さは翻って前者は脆弱性を、後者は再生を示唆するのでやはり空間的な意味を担っている。

 

繰っては戻り、繰っては戻り、進みながら戻る(=未来と過去の往還)ことのゆたかな時間のことを読書、と呼んでおそらく差し支えない。モモもまた、冒頭でのおぼつかない読み書きが、少しずつ成長していく過程を物語のなかでうかがうことができる。ジジの手紙、亀の甲羅の光り輝く天啓的な言葉、寓話、読むことの積み重ねが知らないあいだに全体へ束ねられている。

 

個別的なものへの感動が、全体への肯定的感情の横溢に反転する。小さな記憶への愛情が、それを生み出した舞台や季節を丸ごと抱き締めたくなる気分に広がるのだ。*3

*1:村上春樹1973年のピンボール

*2:庄野潤三プールサイド小景」における、通勤電車から一瞬かがやくプールのまばゆさ

*3:中村邦生『幽明譚』