2015/05/07

ディケンズの"A Madman's Manuscript" (1837)は、「狂人」に女性を売り飛ばした男たちが、彼の手記によって告発される形式を採っている。例えば、 "I saw a smile of triumph play upon the faces of her needy relatives, as they thought of their well--planned scheme, and their fine prize." という文からわかるように、女性と交換したことによって、女性の家族にお金が入ってきたことが暗示されている。あるいはそうして手に入れたお金によって、 "proudest of the three proud brothers" は、 "commission"の位を得た、と「狂人」に告発されるのである。"commission"は軍人の中でも高い位置にある称号であり、アッパーミドル以上であることを示すものである。このことからも、女を売り渡したことによって、成り上がることが可能になった男の存在を読み解ける。このように「望まない結婚」によって女は沈黙を強いられ(実際テクストには"She [the wife] never liked me" , "She loved another" と「狂人」ではなく別の男に好意を抱いていたことが示唆されている)家族ないし男たちがお金を得るために、女を売り飛ばしたことが描かれている。さらにいえば、売り飛ばす(正常な)男/売られる女という権力構造を読み解くことができる。あるいは、テクスト後半で語られる「狂人」の" This was the man [proudest of the three proud brothers] who had been the main instrument in forcing his sister to wed me; well knowing that her heart was given to that pulling boy." をはじめとする怒りの語りは、「売り飛ばす男たち」に対して「沈黙を強いられた女」の怒りを代表させたものと読むことができる。しかし、結局のところ、このテクストにおいては女の怒りを代表するのは男であり、女自身による女の語りはオミットされている。言い換えるなら、このテクストでは語る男/語ら(れ)ない女という構造が温存されているのだ。実際、妻の怒りを代表しているかのようにみられる「狂人」である男は、"old sprits"が耳元で、" [...] time was come"とささやいたとし、妻の眠りのうちに、換言すれば沈黙のうちに殺そうとするが、そこにみえるのは家父長権威的イデオロギー(=支配する男)の執行であり、反抗する余地を与えない男の女に対する支配の欲望である。この支配の欲望に対して後ろめたさを感じる男たち(「狂人」と「兄弟の中で最も傲慢な者」)の物語終盤の口論は、自身の女に対する後ろめたさをまさに互いに投影することによって成り立っている。そのため口論の中には「傲慢な者」の" [...] an insult to her memory." に対して、「狂人」の"You were very fond of your sister when she was alive" と、女を辱めたのはお前だ、といった意味の語りが男たちの間でなされることになり、互いに女に対する正義感をぶつけ合うが、これは男たちの女に対する後ろめたさの投影に他ならない。
妻が眠りから覚めた途端狂気に陥ってしまうというのは「狂人」の予想を裏切るという意味でアイロニカルだが、テクストにおいて彼女が「初めて目を開く」のがこの部分であり、目を開いた世界とは彼女を売り飛ばした男たちと彼女を支配しようとする男の支配する「男社会」であり、「男社会」に耐えきれず彼女は「男社会」の犠牲者として再び目を閉じてしまうと言えるのではないか。端的にいえば「男社会」において彼女は「一瞬しか目を開けられない=何も眼差すことができない」ことがメタフォリカルに表されている。眠りの世界でしか、彼女は自身の感情を表に出すことができない("She had been weeping" )また、テクストの登場人物に固有名が与えられていないことから、月並みだが、「狂人」の妻のような売り飛ばされ沈黙を強いられた女性を一般的なパースペクティブで捉えられると同時に沈黙を強いる男たちの存在もまたみえてくる。このように、「狂人」は一見妻の怒り、女の怒りを代表する人物のように思われるが、妻を無抵抗のうちに殺そうとする場面から、支配する男の権力に加担しているマジョリティであることがわかる。「狂人」に関していえば、妻は医者を介して「狂気」が診断されたが彼は彼自身のスティグマタイズによって自身を「狂人」としていた。これは自らへの他者化、つまり一般的なレベルでいえば、妻の「狂気」には医者の客観性が生じているが、主人公の「狂気」はあくまで「狂気」の血を理由に挙げる主観的なものでしかない。これらが示唆するのは、主人公である「狂人」はパフォーマティブに「狂人」という役割を演じているにすぎない、という可能性である。むしろそこで焦点化しなければいけないのは、「男社会」という舞台で目覚めることもできなかった、眠り続ける女性であり、女性は家で自身の欲望や感情も表に出せず、幽閉されていたという事実である。