2025/11/14

「青春」と、敢えて書くが――もちろん甘さ、軽やかさ、爽やかさだけがその本質ではないという意味で、そもそもそんなものは遡行的なフィクションに過ぎない――、それでもその時、流れてくれてよかった音楽というのが僕にはある。

 

 

今日のハイライト

 

mステで流れた「シャングリラ」の衝撃から何年経ったか知らないけど、未だ脈打つリリシズムへ、灰色の朝なのにときめいた。

 

柴崎友香『帰れない探偵』を読んだが、何とものれなかった。高校の時から柴崎作品にはのれないので、合わないんだと思う。あまりにもぼんやりとした語り、著者の写真へのフェティッシュからくる(「私」を超える)語りの視点の問題、「あなたがいなかったら見えなかっただろう景色」「あなたの視点で景色を見たい」というエッセンスが長ったるい物語のなかで延々展開されることに耐えられなかったんだと思う。好きな人には申し訳ないけど。言語、文体、スタイル、何でもいいけど嫌味ったらしいほど自覚的な語り手の方が僕はしっくりくる。

 

高校の時、同級生に山田詠美『放課後の音符』を貸して、ある頁がコーヒーの染みだらけで却ってきた。29の時、彼女が死んだと聞かされて、たぶん自死だろうなと思いながら『放課後の音符』のコーヒーの染みのことを思い出し、息ができなかった。

 

青春はフィクションでしかない、一方思い出すという行為がもたらす創作性を信じたい、何なら青春を書くということで再び彩ることができたなら――たとえばナボコフ『記憶よ、語れ』は思い出すという行為の創作的豊穣を物語っている。子供が秘密の引き出しをあけるときの高揚感。同じ記憶を同じ強度で思い出すことはあり得ないのだから、青春もまた波のように(同じ波などないのだから)思い出すたび異なる波紋を投げかける。それでもふり返ったときブイのように目印となる美しさというのがあって、それがチャットモンチー「サラバ青春」なのです。