私はなぜか好きになるひとが全共闘世代だったりするんだけれども、彼らの好きなところは単刀直入なところですね。いきなり「あんたはなぜ生きてるの」なんて質問を無神経かもしれないけれどもしてきて、そこからつきあいがはじまるみたいなところが、私は好きなんです。肌にあう。 私の好きな小説にル・クレジオの『海を見たことがなかった少年』というのがあるんです。孤児の少年が出てくるんですが、その少年ははじめて会ったひとに必ず「ぼくを養子にしてくれますか」と訊くんです。生い立ちなど何も説明しないうちに。ほとんどの相手は、戸惑ったり、冗談かと思ったり、「そんなのできるわけないじゃない」といったりする。それでも、とにかく「ぼくを養子にしてくれますか」という質問をするんです。私が好きなのはそんなふうなつきあい方なんです。つまり、有無をいわせず決定的な関係を直截につきつめるところからはじめる──。だから私は古いといわれたりするんだけれども。
(柳美里『自殺』文春文庫 強調引用者)
多分コロナのすぐ後くらい、会社の後輩に誘われていわゆる「意識高いサークル」の飲み会に行ったことがあります。私としては「参与観察」のつもりで、後輩としては比較的自己啓発に関心があり(今、後輩は会社にはいない)、7、8人の同世代の男女とあーでもないこーでもないと話していたのですが、一人なんとなくリーダー格の女の子がぼそっと、「授業の50分なら50分のなかでどれくらい濃密にコミュニケーションできるんだろうか、甘ったるい道徳ではなく、ある深いテーマを真剣に議論させた方がいいのではないか」と話していて、私も同感でした。「甘ったるい教育」はシリアスな問いを許しそうにないですが。聞けば彼女は元教師だったらしい。
柳美里が「有無をいわせず決定的な関係を直截につきつめるところからはじめる」というとき、念頭に置かれているのは「自殺」の切実さに思われるが、柳は続けて、せっかく会えたのだから、なぜ生きているのか、死ぬのか、刺しちがえてもいいから訊きたいと続ける。
ところで『自殺』というテクストが柳の高校での授業・ 生徒へのインタビューをもとに構成されていることは示唆に富んでいる。自殺という問いは「甘ったるい教育」の「氷を打ち砕く斧」(カフカ)でなければいけない。生/死の実存的課題を「刺しちがえても」知りたいという彼女のスタンスは「教育的」に挑発的だ。温室栽培の義務教育(とはいえ「温室」でもないのだが)で「人生の深いテーマ」を煮詰められるのか。彼女の言葉は教育の「おままごと」を鋭利に相対化する。
そんな温室栽培のなかで、小学5、6年だったと思います。国語の授業で宮沢賢治「やまなし」が扱われていて、私はこの小説の幼稚な言葉づかいに辟易していました。なんでこんな子供じみた話を今さら浴びせられなければいけないのか。唾棄してもよい。しかしクラスの男の子がぼそっと、水中の花びらに「弔い」という意味を付与してから垂れる(学習指導要領的な?)担任の興奮、授業は沸いていたと思います。思えば死のことを漠然と考え出したのがその時くらいだったかもしれません。氷を砕く斧とまで鋭くはなかったけれど。
柳は『自殺』の中で「人生の中に自殺をプログラムすることが生の活性化につながる」 と説きます。自分を根底的に覆してしまうような力が、実は自分に渦巻いているのだと悟る瞬間の恐ろしさと、しかしそんな力がむしろ生を一層輝かせうるとときめいてもいいと言い放つとき、要するに死を自覚するときはじめて生は脈打つということです。
より一層温室栽培を求められる今だから、危機と隣り合わせにある柳の言葉が身にしみるのだし、そうした言葉が教育の現場で為されることの意味は「クリティカル」に思われます。